■羽賀基透
車の後部座席、勇と御影が並んで座っていた。車窓から流れる景色を眺めながら、勇は昨日のキサラとの激戦を思い返していた。まさに死地を彷徨ったような戦いだった。
運転席には勇の部下、牧瀬が座っていた。がっしりとした体格と刈り上げた髪、顔に走る一筋の傷が彼の危険な過去を物語っていたが、その運転は驚くほど丁寧で、カーブを曲がる度に後部座席の様子を確認するほど細やかだった。
「牧瀬、ここから先は話しかけるな。集中したい」勇は短く命じた。
「かしこまりました、九龍様」牧瀬は鏡越しに一瞬だけ目を合わせ、恭しく答えた。
「運転手、少し寄り道してくれないか。中央駅のコインロッカーに寄ってほしい」
「承知しました」牧瀬は頷き、方向を変えた。
御影は首を傾げたが、何も言わなかった。彼女は勇の判断を尊重していた。
駅に着くと、勇はドアを開けた。
「私が行く。お前は車を守れ」勇は牧瀬に言った。体を起こす際、痛みで顔をしかめるのを御影は見逃さなかった。
「九龍様、代わりに私が…」牧瀬が心配そうに言いかけたが、勇は手で制した。
「必要ない。すぐ戻る」
勇は駅の中へと歩いていった。数分後、彼は小さなUSBメモリと手のひらサイズの黒い箱を持って戻ってきた。彼は息が少し荒くなっていた。
車に戻ると、助手席の下から新品のノートパソコンを取り出した。
「新しいPCですね」御影は意外そうに言った。
勇は答えず、パソコンを起動し、USBを差し込んだ。画面に表示された情報に、彼の表情が徐々に変わっていくのを御影は見逃さなかった。
最初は真剣な眼差しだったが、やがて眉間に深いしわが寄り、目が見開かれた。そして最後には、驚愕と怒りが入り混じった表情になった。
「これは…」勇の声は低く、震えていた。
御影は黙って彼の横顔を見つめていた。昨日のキサラとの激闘の疲労も残っている勇の変わりゆく表情に、彼女の心配は増していった。
「勇さん、何かあったのですか?」御影は静かに尋ねた。いつもの笑顔は消え、真剣な表情になっていた。
「何でもない」勇は短く答え、パソコンを閉じた。そしてUSBを抜き取ると、持ってきた黒い箱の中にしまった。「透基に会うまでは、誰にも話せない情報だ」
御影は口を開きかけたが、勇の深刻な表情を見て言葉を飲み込んだ。
残りの道のり、勇は黙って窓の外を見つめていた。しかし、その目は景色を見ているわけではなかった。彼の頭の中では、読んだ情報が次々と整理され、分析されていた。時折、無意識に拳を握りしめては緩める仕草を繰り返していた。
「羽賀家に到着しました」牧瀬の声が車内に響いた。
車は羽賀家の立派な門前で停まったが、勇は動かなかった。数分が過ぎ、牧瀬と御影は心配そうに彼を見ていた。
「九龍…」牧瀬が恐る恐る声をかけた。
「勇さん、大丈夫ですか?」御影も心配そうに尋ねた。
勇はゆっくりと深呼吸し、目を開けた。「行こう」
彼はドアを開け、身体を起こそうとしたが、昨日の戦いの傷が痛んだのか、顔をしかめた。
「肩を貸してくれ、御影」
御影は迷わず彼の傍に立ち、肩を貸した。勇はその細い肩に体重をかけ、ゆっくりと歩き始めた。彼の歩みは普段の力強さを欠き、時折足を引きずっていた。
「本当に大丈夫なのですか?」御影は小声で尋ねた。
「ああ…」勇は短く答え、羽賀家の門へと向かった。彼の目には、これから向き合う真実への決意が宿っていた。
羽賀家の邸宅は、東京郊外の小高い丘の上に位置していた。車から降りた勇と御影が見上げたのは、近代的な和風建築と伝統的な神社建築が見事に融合した荘厳な建物だった。
石畳の参道は両側に整然と並ぶ松の木に守られており、道の途中には何か所も鳥居が立っていた。これらは単なる装飾ではなく、強力な結界の役割を果たしているのだと勇は感じ取った。空気そのものが微かに震えているようだった。
「勇さん、ここからは複数の結界が張られています。父上が直々に施した術式です」御影が小声で説明した。
門をくぐると、広大な庭園が広がっていた。枯山水の庭は繊細に整えられ、苔むした石と白砂の波紋が心を落ち着かせる効果を持っていた。池には錦鯉が悠々と泳ぎ、水面に映る紅葉の色彩が幻想的だった。
邸内に案内された二人は、長い廊下を通って奥へと進んだ。廊下の天井は高く、壁には歴代の羽賀家当主の肖像画が掛けられていた。その目は生きているかのように勇を見つめているように感じられた。
「父上はこちらでお待ちです」御影は漆塗りの引き戸の前で立ち止まり、軽く戸を叩いた。
「どうぞ」穏やかな声が中から聞こえた。
部屋に足を踏み入れると、そこは伝統と現代が絶妙に融合した空間だった。床は黒光りする檜の無垢材で、天井には精巧な組子細工が施されていた。一方の壁には掛け軸と生け花があり、もう一方には最新のコンピュータシステムが設置された現代的な書斎スペースがあった。
部屋の中央には低い漆塗りの座卓があり、その向こうに羽賀透基が座っていた。銀色の髪をした細身の男性は、洗練された灰色のスーツを身につけ、スタイリッシュな眼鏡をかけていた。その姿からは年齢を感じさせない威厳と力が漂っていた。
「ようこそ、九龍君。やっと会えたね」透基は穏やかな笑みを浮かべた。「御影、お茶を」
御影が深々と頭を下げ、部屋を出て行く間、勇は卓上に小さな紙袋を置いた。
「お土産です」
透基は興味深そうに袋を開け、中から東京バナナを取り出した。その表情が一瞬で明るく変わった。
「おぉ、これは大好物なんだよ〜!」まるで子どものような屈託のない笑顔で透基は包みを開け、一口かじった。「うん、美味しい!」
その無邪気な反応は、羽賀神道を一代で白山神道に匹敵する勢力にまで押し上げた傑物とは思えないほどだった。
「神威様ともめているとか」透基は唐突に本題に入った。口元にはまだ東京バナナのクリームが少し残っていた。
「はい」勇は頷いた。「神威の右腕のキサラという者とも戦いましたが、化け物クラスでした。圧勝で殺そうとしたんですが、追い払うのがやっとでした」
「そうか…」透基は二つ目の東京バナナを手に取りながら思慮深げに言った。「今現在、呪術界は白山神道と羽賀神道の二つがある。白山神道は明治維新から大東亜戦争敗戦まで日本の呪術戦力の中枢を担っていたのは知っているかね」
「えぇ、長く呪術界を支配してさらに警察庁にも強いコネがある。ただ腐敗も進んでおり、だからこそ民間呪術師を束ねている新興勢力である羽賀神道に押され気味ですよね」勇は答えた。「しかも自分たちは警察庁に絶対的なコネがあり、いうことを聞くと思っている。まぁ警察庁と言えば白山神道であり、防衛庁といえば羽賀神道って感じですよね?」
透基は二つ目の東京バナナをほおばりながら頷いた。「あぁでも白山神道はそもそも廃仏毀釈の関係や維新後の混乱期に他の流派を異端視しすぎた」口の中にクリームを含みながら話す姿は、その強大な力を感じさせないほど自然だった。
「民間の実力派の呪術師は白山神道をよく思っていないのは当たり前だな」透基は続けた。「そのせいで他が協力的ではないね。もうちょっと頭を柔らかくしたらいいのにね」
透基は小さく笑った。「その点羽賀神道は柔軟だよ。使えるもの・実力のあるものは誰でもウェルカムだよ」
「えぇ、羽賀は柔軟で融通も聞くと呪術師界では有名ですね」勇は同意した。
「でも神器省も固いね」透基は少し笑みを浮かべながら言った。「あそこは固すぎて逆に不正が起きてないかな。あそこも歴史が長いからね」
部屋の窓からは庭園の美しい風景が見え、静寂の中で二人の会話だけが響いていた。外の世界で起きている騒動とは無縁のようなこの空間で、呪術界の将来を左右する重要な対話が始まろうとしていた。
「そういえば、透基様」勇は話題を自然に変えるように言った。「この邸宅は呪術的な結界が素晴らしいですね。それ以外には何か特別な防御策を施されているんですか?」
透基は勇の目を見つめ、その真意を探るように少し間を置いた。勇は口を動かさず、唇の動きだけで「監視カメラは?ネットに繋がれたパソコンは?神棚は?」と尋ねた。
透基の目が僅かに見開かれ、すぐに通常の表情に戻った。「そう言えば…」彼はゆっくりと立ち上がり、壁際に設置された内線電話に向かった。「少し確認しておきたいことがある」
彼は短く電話で誰かを呼び出すと、デスクの引き出しからメモ帳とペンを取り出した。何か素早く書き記し、入ってきた部下にそれを手渡した。
「これを即刻実行するように」透基は部下に穏やかながらも威厳のある声で指示した。
部下は一瞥してメモの内容を確認すると、「かしこまりました」と答え、急いで部屋を出て行った。
透基は再び座卓に戻り、お茶を一口飲んだ。「この家の監視システムとネットワーク接続を一時的に停止させるよう指示した」彼は静かに説明した。「神棚については心配無用だよ。羽賀家は元々神棚ネットワークを警戒しており、宗家の建物内には一切設置していない」
彼は窓の外を見やりながら続けた。「私たちが取り扱う呪術の性質上、情報の漏洩は命取りになる。特に最近は…」彼は言葉を切り、勇の方を見た。「君が何か話したいことがあるようだね。今なら安全だ」
部屋は一層静まり返り、二人の間に緊張感が漂った。
「まぁどちらにしてもどの組織も逆らえないのが、伯王筋神招姫であり、その総代八幡神威」透基は静かに言った。
「えぇ。昨日で実感しましたよ」勇は答え、キサラとの激闘を思い返した。痛みが再び体を走る感覚があった。一瞬だけ顔をしかめたが、すぐに平静を取り戻した。
透基は勇の様子を見逃さなかった。「八幡神威様が勝てば、日本は終わりだ」彼は声のトーンを落として続けた。「一応防衛庁に圧力をかけ、呪装自衛隊の様々な基地の駐屯隊と千里眼部隊には通知は出した」
窓の外を見ながら、彼は淡々と続けた。「有力な私立星辰学園の生徒や教師も全国に配置した。そして自衛軍を各地に配置した」
「それだけ?」勇は少し声を強めた。「防衛庁の特務機関は?アメリカにもコネがあるんでしょ?わかっていたのに、もっと動かなかったんですか?」勇は前のめりになり、言葉に力がこもった。「それにただの自衛隊員など意味がないでしょう?」
透基は穏やかな笑みを浮かべた。「いや、使えるものはウェルカムだと言ったろ?何でも使いようだよ」
彼は一瞬黙り、まっすぐに勇の目を見た。「それに…」透基の声がさらに低くなった。「娘を君の元にいかせた」
勇は何とか動揺を隠したが、内心では少し驚いていた。もしはったりではなく、御影を自分に治療させるところから策略だったなら、何歩先まで読んでいるのか。
覗師としての力が噂としてある透基。だからこそ得意なのが暗殺だと聞いている。相手の未来を読み、そして隙を見て殺す。ただ実際に会ってわかったが、何となく同じ覗師の力を持つとは思えなかった。
もし覗師としての力がない状態でここまで未来を読めるのであれば、飛んだ化け物だ。そもそも暗殺が得意というのもハッタリの可能性もある。実際彼が暗殺したという、はっきりした証拠はない。噂レベル。
透基の話は、マクマ—勇の父親が最後に残したUSBの中身と一致していた。羽賀は肉親でも斬るときには斬るという話。さすが一代でここまで勢力を拡大した男だ。いい意味でも悪い意味でもそう思う勇。
これだけの男に小細工は通用しない。そう思い至った勇は、意を決した。
「各地に自衛軍ですか…」勇はつぶやいた。
その言葉に透基の目が鋭く細まった。部屋の空気が一瞬凍りついたように感じられた。
「何か言いたいことがあるのか?」透基は静かに尋ねた。その穏やかな声の奥に鋭い刃のような緊張感が潜んでいた。
部屋の緊張した空気の中、御影は二人の応酬を見守っていた。彼女の表情は変わらず微笑みを絶やさないものの、内心では父と勇のどちらの味方をすべきか葛藤していた。
「各地に自衛軍ですか…」勇のつぶやきに透基の目が鋭く細まり、空気が凍りついた。
「何か言いたいことがあるのか?」透基は静かに尋ねた。
勇はその緊張感をものともせず、突然笑顔になった。「まぁ、そのことは後から話しますよ。それよりも娘さんを下さい」
「げほっ!げほっ!」御影が突然お茶を噴き出した。
「えぇ〜こういう時はスーツだと思うんだけどな〜」透基はため息交じりに言った。
勇は透基の反応に少し戸惑いながらも続けた。「まぁ羽賀神道は柔軟らしいので、いきなり言っても大丈夫かなって。まぁジーパンにサンダル、シャツですけど。それにこの東京バナナも御影に買ってもらったんですけどね」
透基は落ち着いた様子で尋ねた。「それはいいけど、御影と一緒になるということは、こちらの勢力についてくれるってことだね?」
「もちろん」勇は即答した。
「戦闘にも参加してくれるのかい?」
「もちろんです」
「あの流って人もかね?」透基は目を細めた。
「あの人は俺とは友達ですが、話はしてみますよ」
透基は勇をじっと見つめた。「君、怪我は1日何回治せる?」
勇は一瞬緊張したが、表情には出さなかった。
「…あの術は今まで見てきた中で初めて見るよ」透基は続けた。「傷をあそこまで早く治せるのは貴重だ。まして身体の中の傷ついた気脈まで修復出来るのは見たことも聞いたこともない」
「それはあなたが信頼できるようになってからお話しますよ」勇は慎重に答えた。
「なるほど、もっと仲良くなったらってことだね」透基は頷いた。「じゃあ君以外に…」
「いや〜」勇は突然話を遮った。「御影ほど仲良くなれたらいいんですけど。御影は玉舐めも尻舐めもすごいですから。嫌悪感なくあれほどのフェラやアナル舐め出来る女はいませんよ。愛おしいほど丁寧で舌でのアナルほじりも吸引もすごくてやる前のフェラキスも」
真っ赤になった御影は、ついに耐えきれず勇の頭を力いっぱい殴った。「やめなさい!そんな、そんな…」彼女は言葉を詰まらせた。普段のポーカーフェイスが嘘のように恥ずかしさに顔を赤らめ、もはや父の顔も見られないほどだった。
勇は頭を抑えながら謝ったが、内心では自分の術の詳細を明かす空気を巧みに避けたことに満足していた。彼の策略は成功したのだ。
透基は二人の様子を見て、小さくため息をついた。「まったく、若い者は…」彼は言葉を濁したが、目は笑っていなかった。そこにはまるで全てを見透かしているかのような鋭さがあった。
「そうかい。いや〜仲が良くてよかった」透基は意味深に笑った。
「えぇ、仲良しですよ」勇も笑いながら答えた。そして突然真剣な表情になった。「羽賀はさすがですね。肉親だろうが、何だろうが斬るべき時には斬るが家訓ですか?」
「そうだね」透基は静かに頷いた。
「この国を守ることはきれいごとだけではすまないみたいですね」勇は続けた。「自衛軍は特に仙台・長崎・長野・秋田・沖縄に集中させてますね?その意味はわかっています」
「ほう?」透基は少し驚いたように眉を上げ、興味深そうに勇を見た。
勇は御影の方を向いた。「御影、自衛軍の位置の意味がわかるか?基透さんの狙いがわかるか?聞いているか?」
御影は小さく首を振った。「いぇ…」
「なるほど」勇は静かに言った。
「他にわかっていることはあるかね?」透基が穏やかに尋ねた。その目は鋭く光っていた。
「えぇ」勇はうなずき、持参したノートパソコンを再び取り出し、起動させ始めた。
パソコンが起動する間、勇は透基を真剣な眼差しで見つめた。「もう時間はほぼないです。今夜作戦を決行します」彼の声は低く、決意に満ちていた。「貴方を信頼してこれからの情報を見せます。そしてあなたも我々に嘘をつかないでください」
彼は短く息を吸い、続けた。「何故会ったばかりなのに、信頼という言葉を口にするかは今からわかります」
勇は起動したパソコンの画面を透基の方に向けた。
極秘資料:百姫計画概要(未完成)
計画要綱
“百姫計画”は神威指揮下において、従来の神棚ネットワークを現代の電子通信網に移行させるための大規模作戦。神道勢力の復権を表向きの目的としながら、実際にはグローバル規模の監視・支配体制の構築を企図している。
技術概要
姫(呪精体)
- 実体:
- 電子ネットワークに潜伏可能な呪精体
- 勾玉人と同様の原理で作られた存在
- 実体化能力を有する
- 潜伏形態:
- 不明
- 機能:
- 不明
- 特性:
- 1〜100歳まで各年齢層に対応する100体体制
- 潜伏時と実体化時で姿が変化
- ネットワーク間を自在に移動可能
生産施設:魂磐(たまいわ)
- 立地:
- 榊総研バイオ系棟地下30メートル
- 複数の生体認証と特殊な結界で防護
- 特性:
- 核攻撃にも耐える物理的防御
- 完全な気密性と呪術的結界
- 機能:
- 姫の生産・修復施設
- 精の集積・保管場所
- 姫の避難所・要塞
精の収集と利用
- 収集方法:
- 死による大量の精の回収
- 保管方法:
- 特殊容器(科学技術と呪術の融合)
- 水晶状の貯蔵庫
- デジタル・アナログ混在の管理システム
- 利用目的:
- 姫の能力強化
- 支配体制の構築
- 大規模な呪術的影響力の行使
戦略的優位性
過去の国家神道との差異
- 外部権力からの独立:
- 国家権力に依存しない自立型システム
- 政治体制の変化に影響されない
- 地理的制約の克服:
- 日本国内に限定されない
- インターネットを通じた世界規模の展開
- 介入能力の向上:
- リアルタイムでの双方向通信
- 実体化による直接的な物理介入
計画の特性
- 冗長性:
- 一部破壊されても全体は存続
- 浸透性:
- 軍事施設
- 政府機関
- 防衛庁・自衛隊
- 白山・羽賀神道
- 心理的影響力:
- 不明
最終目標
情報から推測される計画の最終目標は、敗戦後に日本の神道体制を解体したアメリカへの復讐。特に神道指令(1945年)により破壊された伝統的な神道体系の復権と、より強力な形での再構築が意図されている。
過去の神棚ネットワークの欠点と克服策
1. 外部権力への依存
旧システムの問題点:
- 「戦期において神棚が祭られたのは……全体主義体制強大な支配力」
- 国家権力なしには機能しない脆弱性
- 政治体制に依存する不安定さ
百姫計画での克服策:
- 電子ネットワークの自律的浸透
- 国家や政府機関から独立した運用体制
2. 地理的・文化的な制限
旧システムの問題点:
- 日本国内のみに限定された影響範囲
- 神道という文化的制約による普及の限界
- 普遍性の欠如による国際的影響力の欠如
百姫計画での克服策:
- インターネットを通じた国境を超えた展開
- 文化に依存しない「対話システム」としての偽装
- 各国・各文化の価値観に適応可能な可変的インターフェース
3. 監視システムとしての限界
旧システムの問題点:
- 物理的な神棚に依存した固定的システム
- リアルタイムでの介入が困難
- 情報収集と分析の効率の悪さ
百姫計画での克服策:
- デジタルネットワークによるリアルタイム監視
- 姫の実体化による直接的物理介入能力
- AI的な分析能力と即時対応
神威の思想と計画の本質
真の目的
- 完全な支配による秩序の確立
- 神道的価値観の再構築と強制
- 世界規模での監視体制の構築
思想的背景
- 「神の座は便益上設けられた」という功利主義的認識
- 人々の信仰心と依存性を利用する冷徹な姿勢
- 電脳という新しい依存媒体を利用した効率的支配
神威の価値観
- 人々を操作の対象として見なす優越的視点
- 自分たちこそが正しい判断ができるというエリート主義
- 一般人の意思や自由よりも秩序を優先
具体的な管理手法
- 監視と管理の対象としての人間社会
- 個人の自由や選択の制限
- トップダウン型の統制社会の構築
新システムの革新的危険性
依存性の創出
- 医療用ソフトという形を取った新たな「神」の創出
- 悩みを聞き、励まし、導いてくれる親密な存在感
- 既存の神よりも具体的で応答性の高い存在
システム的優位性
- 不明
排除の困難性
- 不明。
特記事項
本システムは、単なる監視網を超えて、人々の精神的依存を創出し、既存の宗教的枠組みを超越する危険性を有している。さらに、その排除が技術的に極めて困難であるという点で、従来の呪術的脅威とは質的に異なる。
現状評価
1999年現在、既に一部の姫は軍事施設や政府機関のネットワークに浸透している可能性がある。特に、白山・羽賀神道や自衛隊・防衛庁などの重要機関への侵入は、国家安全保障上の重大な脅威となる。
早急な対応が求められるが、従来の呪術的対抗手段では効果が限定的であり、新たな対策の策定が必要である。
「神棚ネットワーク」は単なる情報ネットワークではなく、霊的・呪術的な力を伝達する特殊なネットワークであり、それを現代の電子通信網に「移植」「再構築」しており、現在重要な神社・神棚(「国造クラス」)の霊的ネットワークを「姫」のシステムに再構築し、移植中。
透基はじっと画面を見つめた。いつもの穏やかで読めない表情が崩れ、明らかに動揺が見て取れた。彼の目は見開かれ、息が止まったように見えた。御影も父の表情の変化に驚き、思わず前のめりになった。
数分間、部屋は完全な沈黙に包まれた。透基はUSBに入っていた「百姫計画」の詳細を一語一語読み進め、時折眉をひそめたり、息を飲んだりした。
「なるほど…」最後に彼はゆっくりと言った。「東京バナナを2つにしておいてよかったよ」彼は無理に笑おうとしたが、目は笑っていなかった。「食べ過ぎてたら吐いてたよ。君、意外と気が利くじゃないか」
部屋の空気は一層重くなり、三人は互いの顔を見つめ合った。勇が持ち込んだ情報によって、これからの戦いの行方が大きく変わることを、全員が直感的に理解していた。
「ただ不明な点も多い。それらの空白はどう思う?」
「それもこれを探っていた人物によれば、不明点を全て話せる存在がいるみたいです。こちらの側に唯一懐柔出来、かつ神威やキサラと同じく地下に行け、この百姫計画の全貌を理解できるものが」
勇は咳払いをすると、自分の計画を話し始めた。それは彼の父が残した情報と警告、そして道具を分析し、最良だと判断したものだった。彼の言葉は明瞭で力強く、眼差しには揺るぎない決意が宿っていた。
話が進むにつれ、透基の表情は徐々に硬くなっていった。勇が一通り説明を終えると、透基はすぐに首を振った。
「無理だ」彼の声は冷静だった。「リスクが大きすぎる。それに成功の可能性も低い」
勇はその言葉を聞くと、少し顔を近づけた。「なるほど」冷たく笑いながら言った。「では伯王筋を信仰している社を爆破、放火。有力な氏子とそれに連なる人々を全て殺害しますか?」
御影は思わず息を飲み、父の方を見た。透基の表情は変わらなかったが、御影には父の中の変化が感じ取れた。
「有名・無名の社があるからこそ、仰心があるからこそ、伯王筋神招姫の力は維持できている」勇は続けた。「それを全て破壊すれば、確かに神威の力は堕ちる。羽賀は斬るべき時には斬る、そうですよね?」
彼は一瞬黙り、透基をじっと見つめた。
部屋の温度が一瞬で下がったように感じられた。御影の瞳が驚きで見開かれた。
「だがその後、理不尽に燃やされた社や殺された人々の怨嗟は凄まじいものになる」勇は静かに説明を続けた。「それを鎮めるための生贄に御影を使う」
彼は透基の目を逃さず見つめながら続けた。「さらに神威がいなくなったら…神招姫がいなくなったら、その穴埋めとして羽賀神道はさらに勢力を拡大できる。・・・警察庁と言えば白山神道であり、防衛庁といえば羽賀神道・・・なら神威が率いる伯王筋神招姫は・・・陛下、宮内庁ですよね」
透基の目が微かに見開かれた。彼の腹積もりを完全に見抜かれていたのだ。一瞬の沈黙の後、彼はゆっくりと口角を上げた。
「さすがはあの九龍城をまとめ、キサラ様を撃退しただけはある」透基は感心したように言った。その目は勇をこれまでとは違う光で見ていた。
「でも君の計画には乗れないよ」透基はきっぱりと言った。彼の声は柔らかいながらも、決意は揺るがなかった。
勇は静かに頷いた。「それはわかっています…」彼は一瞬言葉を切り、唐突に話題を転換した。「あなたは大公級淫魔の話を知っていますか?」
透基は眉を上げ、疑問を感じながらも笑顔を崩さなかった。「いや…知らないな」彼は首を傾げた。「この世界では淫魔は最高でも男爵級が最高のものではずだが?」
「そうです」勇は頷いた。「しかし戦国時代から日本に顕現しています。その淫魔は人外クラスに強いですが、別に人間を支配する気はなかったみたいで、一部の絵や聞き伝えでしか存在は知られていません。だからあなたが知らなくとも無理はないかと。その淫魔は今の基準で言うと大公級です」
「なるほど」透基は興味を示したが、まだ警戒心を解いていなかった。「その淫魔がどうしたんだい?」
勇は答える代わりに、持っていた小箱をゆっくりと開けた。その中身を透基に見せると、透基の表情が一変した。常に穏やかで読みにくい表情だった男の顔に、明らかな驚きが浮かんだ。
「これは…」透基は箱の中身を凝視し、言葉を失った。御影も好奇心に負け、少し身を乗り出して中をのぞこうとしたが、父の一瞥で静かに元の位置に戻った。
「この20年で最も驚いたよ」透基はようやく言葉を取り戻した。彼は箱の中身を見つめながら、何度も「なるほど…なるほど…」と繰り返した。
そして彼は顔を上げ、勇をまっすぐに見た。その目には新たな理解の光が宿っていた。「君を信頼しよう」
透基の言葉には重みがあった。これは単なる約束ではなく、これからの戦いへの誓約でもあった。
「ありがとうございます」勇は静かに答えた。彼は小箱を閉じ、慎重に手元に戻した。
御影は二人の間の変化を感じ取った。何かがこの瞬間に決まったのだと直感的に理解した。彼女の好奇心は爆発寸前だったが、今はまだ時期ではないと自分に言い聞かせた。
「では、改めて話をしよう」透基は姿勢を正し、声のトーンを変えた。今や彼の態度には、これまでのような遊びの要素はなく、完全に羽賀神道の当主としての威厳が漂っていた。「我々には時間がない。急いで準備して支度しよう」
運転席には勇の部下、牧瀬が座っていた。がっしりとした体格と刈り上げた髪、顔に走る一筋の傷が彼の危険な過去を物語っていた。彼は屋敷で何があったのか聞きたい様子だったが、上司である勇の前では何も言わず、ただ命令通りに黙々と運転を続けていた。時折バックミラー越しに後部座席の二人に視線を送るものの、質問することは控え、プロフェッショナルな態度を貫いていた。
後部座席では御影と勇が並んで座っていた。御影の表情は屋敷を出てからずっと曇ったままだった。普段のニコニコとした笑顔は跡形もなく消え、代わりに険しい表情が浮かんでいた。
突然、御影の手が素早く動き、勇のわき腹を強く掴んだ。
「いてて!いてぇよ!」勇は身をよじらせて悲鳴を上げた。「呪力不足でまだ刀の後遺症残ってんだぞ」
御影の指はさらに強く食い込み、声を低くして言った。「いきなり結婚とはどういうことですか!?」
「ちょっ、待て…」
「しかもお父様に私のことをあんな風に言って!」御影の声は怒りに震えていた。「私は何も聞いていませんよ!」
牧瀬はバックミラー越しに状況を見て小さく笑ったが、すぐに真面目な表情に戻した。
「あのな、あれは透基さんの追及をかわすためだったんだよ」勇は痛みに顔をしかめながら説明した。「あのまま術の話が続いたらマズいと思ってさ…」
「私を盾にするのはやめてください!」御影はさらに指に力を込めた。「そういう冗談は私の立場を考えてから言ってください!」
勇は御影の普段見せない感情の激しさに少し驚いた。通常、彼女は感情を表に出さず、常に微笑みを浮かべていた。それが今、これほど露骨に怒りを表すのは珍しかった。
「わかった、わかった」勇は降参するように手を上げた。「悪かった。もう言わないよ」
御影は少し間を置いてから、ようやく手を緩めた。深呼吸をして、少しずつ普段の表情を取り戻そうとしていた。
「…すみません」彼女は小さな声で言った。「感情的になりすぎました」
「いや、俺が悪かった」勇は御影の表情の変化を見て言った。「でもさ、あれしか思いつかなかったんだよ。透基さんの質問をかわすには」
「それにしても…」御影は頬を赤らめながらも、冷静さを取り戻そうとしていた。「もっと違う方法があったはずです」
「じゃあ御影は嫌だったか?」勇がさりげなく身を寄せ、距離を縮める。
御影は少し身体を引いたが、その場から逃げ出すわけでもなく、困惑した表情を浮かべた。「い、嫌とかじゃなくて…まずはちゃんと段取りや私への確認とかを…」
「そんなことを聞いてるんじゃない」勇は彼女の耳元で優しく囁いた。「嫌かどうかだ」
「っ…」
御影は言葉に詰まり、答えることができなかった。そんな彼女に、勇はゆっくりと顔を近づけた。
ゆっくりと勇は御影に向き直り、彼女の頬に手を添えた。その指の感触は温かく、御影の顔を優しく包み込むように添えられていた。
「っ…」
僅かに漏れる息に、御影の緊張が表れていた。勇はそんな彼女の反応を見逃さず、ゆっくりと顔を近づけた。
最初は柔らかく、まるで羽が触れるような軽やかさで二人の唇が重なる。御影の唇は予想以上に柔らかく、僅かに湿り気を帯びていた。勇はしばらくそのままの状態で、御影の反応を待った。
彼女が身を引かないのを確認すると、勇は少しずつ圧力を加えていった。唇と唇の間に生まれる熱が、二人の間に緊張を生み出す。御影の呼吸が乱れ始め、彼女の唇が微かに開いた瞬間、勇はさらに深くキスを交わした。
舌が触れ合う感覚に、御影の体が小さく震えた。勇の舌が彼女の口内を優しく探るように動き、御影の舌と絡み合う。甘く、湿った音が車内に静かに響く。
勇は御影の腰に手を回し、彼女の身体をさらに引き寄せた。御影の唇から小さな声が漏れたが、それは拒絶ではなく、むしろ受け入れるような響きだった。
彼らの息が混ざり合い、キスはより深く、より情熱的になっていった。御影の硬かった身体が徐々に柔らかくなり、勇に身を預けるように姿勢が変わっていく。
やがて勇は少し身を引き、御影の唇から離れた。二人の間に細い糸が一瞬だけ架かり、すぐに消えた。御影の唇は濡れて艶やかに光り、その呼吸は乱れていた。彼女の常に冷静な表情は今、欲望と困惑が入り混じった複雑なものへと変わっていた。
「ダメ…見られてますから」彼女は小さな声で言った。頬は紅潮し、普段の冷静さは完全に崩れていた。
「大丈夫だ」勇は自信たっぷりに微笑むと、前を向いた。「牧瀬、後ろは見ずに運転しろ。お前は何も見てない、聞いてない」
「はい」牧瀬は即座に答え、背筋を伸ばして視線をしっかりと前方に固定した。彼の表情は変わらなかったが、うっすらと耳が赤くなっていた。
「そんなのうそっ…」御影が抗議するように言ったが、勇はもう一度彼女に口づけた。
「それにキサラとの戦いで、俺の呪力はだいぶ減ったな」勇はさも何気なく言った。
「呪力の回復なんて、別に口からじゃなくても…」御影は小さく抵抗の言葉を紡いだ。彼女の両手が勇の胸に当てられ、わずかに距離を作ろうとしている。「他の方法だって…」
しかし勇は彼女の言葉を遮るように、再び唇を重ねた。今度のキスは先ほどよりも情熱的で、御影の言葉を封じ込めるように深く、激しいものだった。
「ん…」御影の喉から漏れる声は、もはや抵抗というよりも、別の感情を帯びていた。
勇の手が彼女の髪に絡み、もう片方の手は彼女の背中を支えるように回り込む。彼の唇は御影のものを求め、舌が絡み合い、息が交錯する。御影の抵抗の手は、いつの間にか勇の襟を掴み、引き寄せるような仕草に変わっていた。
夕暮れの車内、二人の間に流れる時間だけが止まったかのようだった。
キスの熱が増すにつれ、御影の意識から牧瀬の存在が遠ざかっていく。彼女の世界は今、唇の感覚だけに集中していた。普段は常に周囲に気を配り、表情一つ変えない彼女が、この瞬間だけは自分を解放させていた。
勇は彼女の唇から頬へ、そして耳元へとキスを移動させた。「御影…」と低い声で囁く。
「ダメ…」御影の言葉と行動は矛盾していた。彼女の手は勇を引き寄せ、首筋に感じる彼の息に小さく震えている。
勇は再び彼女の唇を奪い、今度はより深く、より長く続けた。御影の唇が彼のキスに応え、二人の呼吸が一つのリズムを刻み始める。
車窓の外では、夕日が山の端に沈み、空が紫色に染まっていた。牧瀬は依然として前方だけを見つめ、バックシートで起きていることに気づかないふりを続けていた。
やがて勇は御影から離れ、彼女の紅潮した顔を見つめた。彼女の髪は乱れ、唇は濡れ、瞳には普段見せない感情が宿っていた。
「…この続きは、もっと二人きりになってからにしようか」勇はそっと彼女の頬に触れながら言った。
しかし、その言葉とは裏腹に、勇は再び御影の唇を求めた。今度のキスはさらに深く、彼は彼女の唇を舌で優しく撫で、そっと口内へと侵入した。御影の抵抗はもはやなく、むしろ迎え入れるように唇を開いた。
勇の舌が御影の口内を探り、彼女の舌と絡み合う。二人の舌が踊るように交わり、勇は意識的に彼女の口内に自分の唾液を送り込んだ。彼の目が御影を捉え、その瞳には明確な命令が浮かんでいた—「飲め」と。
御影はその視線に従うように、喉を鳴らして二人の混じり合った唾液を飲み込んだ。それは単なる行為以上の意味を持っていた。勇の精が彼女の中に入っていくような感覚に、御影の体は内側から熱くなっていく。羽賀の術者として、彼女は精の交換が持つ呪術的な意味を熟知していた。しかしこの瞬間、彼女の行動は術理によるものではなく、純粋な感情によるものだった。
御影の理性が薄れていく。彼女の手が自ら勇の首に回り、彼をさらに引き寄せた。今度は御影から積極的に勇の舌を求め、吸い、絡める。彼女の唇が勇のものを捉え、軽く噛み、そして再び深く交わる。
「ん…」御影の喉から漏れる声は、もはや抑えきれない欲望を帯びていた。
勇は御影の髪の匂い、唇の柔らかさ、そして彼女の体から放たれる微かな香りに酔いしれた。彼女の熱い吐息、わずかに震える指先、そして普段は決して見せない素顔—それらすべてが彼を魅了していた。ここで、この車内で彼女を抱きたいという衝動が湧き上がるほどに。
勇の手が御影の首筋から鎖骨へと滑り、彼女の体がその接触に反応して小さく震えた。唇と唇の間にわずかな隙間ができ、二人の呼吸が熱く混ざり合う。
やがて御影が自ら唇を離し、息を整える。彼女の瞳は潤み、普段の冷静さはどこにもなかった。彼女の胸が激しく上下し、頬は紅潮していた。
「勇…」彼女は小さく名前を呼んだ。それは命令でも要請でもなく、ただ感情の吐露だった。
勇は彼女の熱っぽい視線に応えるように微笑み、そっと彼女の耳元で囁いた。「これが呪力の交換か…もっとしたくなるな」
御影の返答はなかった。しかし彼女の目には明確な意志が宿っていた—これは終わりではなく、始まりだという。
■潜入。
榊製薬総合研究所—榊総研と呼ばれるこの複合施設は、東京郊外の丘陵地帯に建っていた。戦前から続く医産複合体として、その存在は医学界と呪術世界の境界線上に位置している。
施設に近づくにつれ、まず目に入るのは高さ80メートルを超える中央棟のガラスタワー。青みがかった特殊ガラスで覆われたその外観は、朝日や夕陽を反射して時に神々しく、時に不気味に輝く。タワーの頂上には榊家の家紋—八重の榊の葉を模した紋章—が控えめに描かれ、権威と伝統を象徴している。
敷地を囲むのは高さ3メートルほどの一般的な塀で、監視カメラと有刺鉄線が設置されている程度だ。表向きは一般的な製薬会社の研究施設として、過度な警備は避けているように見える。ただし、術者の目には微かな結界が見えなくもない。それは侵入を完全に防ぐものではなく、むしろ霊的な存在の接近を検知する程度の簡素なものだ。
正門には制服を着た警備員が数名立っているが、彼らは通常の企業警備員と変わりなく、特別な呪力を持っている様子はない。訪問者は受付で身分証明書を提示し、来訪の目的を告げるだけで、比較的容易に敷地内に入ることができる。
敷地内には複数の建物が配置されている。中央のガラスタワーを中心に、放射状に広がる五つの低層棟。これらは五行思想に基づき配置され、それぞれ異なる研究分野を担当している。東棟は生体工学、南棟は薬理学、西棟は電子技術、北棟は基礎医学、そして中央は統合研究部門となっている。
地上部分の警備は比較的緩やかだが、地下施設は別物だ。表向きは単なる保管庫や実験室として認可されているが、実際には地下30メートルにまで掘り下げられた複雑な迷宮が広がっている。地下へのアクセスは厳重に制限され、多層的な生体認証システムと強力な結界で守られている。
夜になると施設全体は静かになり、ほとんどの従業員は帰宅する。残るのは夜間警備の警備員と、一部の研究員のみ。建物の照明は最低限に抑えられ、省エネモードになる。
敷地の主要な場所には監視カメラが設置されているが、それらは一般的な民間企業で使用されているものと大差ない。死角も多く、システムも特別先進的というわけではない。むしろ、榊総研の真の防御は秘密裏に行われている呪術的な監視と、地下施設の強固なセキュリティに集中している。
榊総研の存在は公にされているが、その実態を知る者は少ない。そして今、この施設の地下深くでは、次世代の神棚ネットワークを構築するための準備が、静かに、着々と進められていた。
「闇より出でし影よ、汝に命ず」
羽賀透基の静かな呪文が夜気を震わせる。言葉が終わるや否や、彼の足元に広がる影が不自然に揺らめき始めた。九龍勇は目を凝らして見つめる。影は徐々に膨れ上がり、やがて二人を包み込むほどの暗い帳へと変貌していく。
「お見事です」勇は素直に称賛した。本で読んだことはあったが、実際に目にするのは初めてだった。「羽賀神道の秘術ですね」
透基は眼鏡を軽く押し上げ、微笑んだ。「ただの小手先の技さ。本番はこれからだ」
榊総研の建物は夜の闇に溶け込むように静まり返っていた。二人は影に隠れたまま、警備員の視界を巧みにすり抜けながら建物内部へと潜入していく。
「地下への入口はこの先です」勇が囁く。以前偵察した時の記憶を辿って案内する。
エレベーターホールに辿り着いた二人は、待機する。しばらくすると、白衣を着た研究員が現れた。男は疲れた様子で手元の書類に目を通しながら、エレベーターのボタンを押す。
「今だ」透基が囁く。
二人は影となって研究員の後ろに忍び寄り、エレベーターに乗り込む。研究員は何も気づかず、カードキーを取り出して「B30」のボタンを押した。
エレベーターが動き始めるとすぐに、勇は不思議な感覚に襲われる。エレベーターシャフト全体が強力な結界に包まれているのだ。通常の呪術師ならば、この時点で即座に察知され、B30に到達する前に焼き尽くされてしまうだろう。
「感じるか?」透基が影の中から囁いた。「この結界の強さを」
「ええ」勇は緊張した面持ちで応える。「凄まじい呪力です。普通の呪術師なら、この時点で灰になっているでしょう」
研究員は何も感じていない様子で、ただ疲れた表情でスマートフォンを見つめている。呪力を持たない人間には、この恐ろしい結界は全く影響しないのだ。
「虚空渡りの呪符を準備」透基は静かに言った。
勇は懐から古びた紙片を取り出した。虚空渡りの呪符—現代では二度と作ることができない失われた技術の結晶。そもそも誰がどう作ったのかすらわからないもの。
蘆屋道満が1度だけ使ったと言う文献が残っているのみ。
勇が呪符に呪文を囁くと、それは彼らを包む影と同化し始めた。二人の体が徐々に結界を通過できる状態へと変化していくのを感じる。絶妙なタイミングだった—エレベーターが「B30」に到着する直前、結界が最も強力になった瞬間に呪符が完全に発動したのだ。
エレベーターが「B30」に到着し、扉が開く。しかし研究員はすぐには出られない。廊下の入口には高度なセキュリティゲートが設置されており、機械的な声が響く。
「生体認証スキャン開始。静止してください」
研究員は慣れた様子で立ち止まり、スキャンを受ける。網膜、指紋、DNA、さらには呪力レベルまで検査しているようだ。偽物の研究員や呪術師が変装していれば、ここで確実に排除される仕組みだ。
「生体認証確認。吉岡研究員、入室許可します」機械的な声がして、ゲートが開いた。
研究員が通り過ぎると、透基と勇は影のまま素早く後に続く。虚空渡りの呪符の効果により、セキュリティシステムは二人の存在を完全に無視した。
ゲートの向こうに広がる光景に、勇は息を呑んだ。廊下に沿って無数の結界が幾重にも張り巡らされ、虹色の光を放っている。
「信じられない…」勇は影の中で呟く。「何百もの結界が…」
「しかも前に君が破壊した部分も完全に修復されている。むしろ以前より強化されているようだな」透基の声には警戒が滲んでいた。「どんな一流の呪術師でも突破は不可能だ。試みただけで神威たちに察知される」
透基が結界に近づき、手を伸ばそうとする。
「絶対だめですよ!」勇が慌てて制する。
「わかっているよ」透基は影の中で微笑んだ。「ただ、興味深い結界だね。神威の才能は本物だ」
慎重に進みながら、彼らは何層もの結界を通過していく。虚空渡りの呪符のおかげで、結界は二人の存在を完全に無視していた。最後の結界を抜けると、そこには「魂磐」と刻まれた巨大な扉があった。
「ここが百姫計画の本拠地か…」勇は呟いた。
透基が扉に手をかけた瞬間、虚空渡りの呪符が光を失い、ボロボロの紙切れへと変わり果てた。
「時間がない」透基の声に緊張が走る。「呪符の効果が切れた。これからは自分たちの力だけが頼りだ」
二人は覚悟を決め、扉を開いた。その先に待っているのは、涼皇を含む囚われた者たち、そして百姫計画の全貌だった。
「行くぞ、勇」 「はい、基透さん」
扉の向こうに広がる未知の空間へ、彼らは一歩を踏み出した。
扉の中に足を踏み入れた勇は、さりげなく懐から小さな紙片を確認した。
「ちゃんと持ってるね?」
勇はにやりと笑った。「もちろんです」
透基は無言で頷いた。最後の1枚は帰りには使わないこと—それは二人の間ですでに共通認識となっていた。このミッションは一方通行。成功するか、さもなくば命を落とすか。中途半端な選択肢は存在しなかった。
「ほら起きて、影から出よう」透基が言った。
影が徐々に彼らの足元に戻り、二人の姿が現れる。しかし榊総研入り口では二人だけだったのに、今や三人の姿があった。一人は気絶している様子の女性だった。
九龍勇に抱えられていた甲凪美冬がうめき声を上げ、目を覚まし始める。彼女の意識が戻り始めるや否や、勇は彼女の首に手をかけた。
「声を出したら殺す」
彼の目は冷たく、声音に迷いはなかった。美冬は恐怖に目を見開き、咄嗟に黙り込んだ。勇の手が首に食い込む感覚に、彼女は必死で頷いた。
「良い子だ」勇はゆっくりと手を緩めた。「今から言うことに応えろ」
美冬は解放され、喉元を押さえながら勇と透基を交互に見つめた。彼女の中で恐怖と好奇心が入り混じっていた。この凶暴な男の言うことに従っておけば、隙を見て逃げ出せるかもしれない。それに…
「レベル4の鎮室の奥の部屋…魂磐に入ったことはあるか?」勇が問いかける。
美冬は首を横に振った。
「じゃあ実際に姫を見たことは?」
再び美冬は首を振る。彼女の目に恐怖と共に、好奇心の炎が宿り始めていた。
「やはりか」透基が呟いた。「涼皇の推察通りだった」
「榊総研との提携に署名しておきながら、実際の核心部には立ち入らせてもらえなかったというわけか」
美冬は複雑な表情を浮かべながら小さく頷いた。
「じゃあ見せてやるよ」勇が笑みを浮かべる。「お前も知りたいんだろう?神威やキサラが何を隠していたのか」
美冬の表情が変わった。彼女はあまりの勇の迫力に怯えていたが、同時に長年抱えてきた好奇心が猛烈に湧き上がってきた。レベル4の内部を見たことがない。どれだけ見ようとしても神威やキサラから拒否されていた。姫の姿を見たことがない。彼女の目に決意の色が宿る。今は従っておいて、隙を見て逃げればいい。それまでに百姫計画の真実を自分の目で確かめよう。
「行きましょう」美冬は小さく、しかし確かな声で言った。
「俺が先導する」勇は自信満々に言った。「レベル4までの道はわかっている」
透基は意外そうな顔をした。「情報を持っていたのか?」
「ある筋から」勇は悪戯っぽく笑った。「下調べは入念にしておいた」
三人は静かに廊下を進む。勇は迷うことなく曲がり角を曲がり、分岐点で正確に道を選んでいく。まるでこの複雑な地下施設の地図を暗記しているかのようだった。
「ここだ」勇がついに立ち止まった先には、厳重なセキュリティゲートが目の前に広がっていた。「涼皇はこの中にいるはずだ」
複数の生体認証スキャナーと高度な結界が幾重にも張り巡らされた入り口は、まるで要塞のようだった。透基がその複雑な警備システムを素早く観察する。
「相当な警備だな」透基がゲートを調べる。「普通の方法では突破できない」
「私のカードで開けます」美冬が前に出た。「榊総研との協力関係があるため、このレベルのアクセス権は持っています」
彼女はポケットからカードキーを取り出し、スキャナーにかざした。「甲凪美冬、認証します」と小さく言う。
「認証完了。研究区画アクセス許可」機械的な声が響き、多層防御の扉が一枚ずつゆっくりと開いていく。
扉の向こうには、広い実験室のような空間が広がっていた。部屋の中央には特殊な封印が施された透明な円筒状の檻があり、その中に小さな人影が座っていた。子供の姿をした御巫涼皇である。檻の周囲には呪術と科学技術が融合した装置が配置され、涼皇の強大な力を封じるための結界が何層にも張り巡らされていた。
「涼皇様…」透基が呼びかける。
涼皇はゆっくりと顔を上げ、三人を見た。彼女の表情に驚きの色が浮かぶ。キツネのような切れ長の目を持つ和風美人の少女の顔に、一瞬の感情が走った。
「羽賀…そして九龍」彼女は静かに言った。「よく来てくれた」
勇が檻に近づき、封印の仕組みを素早く調査する。「見たことのない封印だな…」
「解除できるか?」透基が尋ねる。
「時間をくれ」勇は呪符を取り出しながら答えた。虚空渡りの呪符はすでにボロボロになっていたが、かろうじて効力を保っていた。「この呪符を使えば、封印を一時的に無効化できる」
彼が呪符に向かって呪文を唱えると、涼皇を閉じ込めている結界に微かな揺らぎが生じた。
「急いで」透基が周囲に警戒の目を光らせる。「気配がある。誰かが気づき始めている」
勇の手によって結界が一時的に弱まると、涼皇は立ち上がった。小柄な子供の体からは想像できないほどの威圧感が放たれる。
「檻を開けてくれるか?」彼女は平静を装いながら言った。「そして奥の部屋を…見たい」
美冬は驚きの表情で涼皇を見つめる。「奥にあるのは…」
「ああ、百姫計画の真実じゃ」涼皇は冷静に答えた。「美冬、お主も見たいじゃろ?」
勇が檻の封印を完全に解除すると、涼皇は静かに出てきた。彼女は立ち上がり、小さな体で周囲を見回した。
透基は懐から小さな箱を取り出した。
「涼皇殿、これを」
彼は箱を開け、その中から青い光を帯びた古代の九頭鏡を取り出した。複雑な模様が刻まれた、それは涼皇が以前使用していた鏡だった。
「これは…」涼皇の目が見開かれる。
「あなたの九頭鏡です。以前神威に奪われたものを、ある場所から取り戻してきました」透基は鏡を涼皇に渡した。「本来あなたのものを、今返します」
涼皇はその鏡を受け取ると、驚くほどスムーズに自分の呪力を流し込んだ。鏡が青い光を放ち、宙に浮かび上がる。
「これなら…」彼女の目に力が戻り始めた。
涼皇は九頭鏡を首にかけると、表情が一変した。凛とした威厳が幼い顔に宿り、子供の姿のままながら、その目には古の叡智と圧倒的な力が宿った。
「奥の部屋へ」彼女は小さな指で奥の扉を指し示した。「魂磐がある」
四人は静かに奥の扉へと向かう。それは「絶対領域」と書かれた、さらに強固な結界で守られていた。
「最後の結界だ」透基が言った。
涼皇は勇の手にある虚空渡りの呪符に目をやる。「それを使って」
勇は頷き、残りの力を呪符に注ぎ込んだ。四人の姿が再び透明になっていく。
「行くぞ」涼皇が言った。
四人は結界を通り抜け、魂磐と呼ばれる秘密の空間へと足を踏み入れた。
涼皇は勇の手にある虚空渡りの呪符に目をやる。
「どうしてそれを?」
「話はあとです」
勇は頷き、残りの力を呪符に注ぎ込んだ。四人の姿が再び透明になっていく。
「行くぞ」涼皇が言った。
四人は結界を通り抜け、魂磐と呼ばれる秘密の空間へと足を踏み入れた。その先に広がる光景に、美冬は息を呑んだ。
そこには百姫計画の全貌が—日本、いや世界の運命を左右する恐るべき計画の核心が待っていた。
■百姫計画
魂磐の扉が開くと、そこに広がる光景に四人全員が身体の奥底から凍りついた。
言葉が出ない。
声を絞り出そうとしても、喉から音が出てこない。あまりの醜悪さと姫の正体、そして集まっている精の途方もない量に、彼らの精神は深い淵へと引きずり込まれていた。
透基の顔から血の気が引き、両手が制御を失ったように震えている。勇は目を見開いたまま硬直し、瞳孔が針の穴ほどに縮んでいた。涼皇でさえ、その場に立ち尽くしたまま全身を激しく震わせ、唇を血が出るほど噛みしめていた。
彼らが見たものは、人の言葉で表現できるような代物ではなかった。見てはならないものを見てしまった—古の禁忌に触れてしまった者だけが知る絶望が、彼らを包み込んでいた。
美冬が最初に反応した。「あっ…あぁぁぁぁ…」
微かな悲鳴を上げた彼女の目から突然、黒ずんだ血が溢れ出した。呪力の少ない彼女の身体は、魂磐の真実を見たことによる衝撃を受け止めきれなかったのだ。美冬は両目から血を流し、その場に崩れ落ちた。崩れ落ちる直前、彼女の顔には終わりの見えない絶望が刻まれていた。
勇は咄嗟に美冬をかかえ上げたが、自分の手足が自分のものではないかのような感覚に襲われる。彼の心の中で何かが砕け散り、二度と元には戻らないという確信が湧き上がってきた。
涼皇の手が勇の肩を痛いほど強く掴んだ。彼女は口を動かすが、音は出ていない。しかし、その目に宿るのは純粋な恐怖と、絶望の先にある最後の理性だった。
「退け」—声なき声が勇の脳内に響いた。
透基が虚空渡りの呪符を確認する。ボロボロになりつつあるが、まだ完全に効果が切れてはいなかった。しかし、その効力はまるで炎の前の蝋燭のように急速に溶けていっていた。
四人は精神を引きずるようにして魂磐から脱出し、元来た道を戻る。勇は気絶した美冬を抱えたまま、透基と涼皇に続いた。彼らは最後の力を振り絞って結界を通り抜け、鎮室へと戻った。
扉が彼らの背後で閉まると同時に、虚空渡りの呪符は完全に灰と化し、風に飛ばされていった。最後の希望が消え去ったかのようだった。
鎮室に戻っても、四人は沈黙したままだった。言葉を発する力が戻らないのではない。言葉にできないほどの虚無と絶望が彼らを襲っていたのだ。
勇は美冬を静かに床に横たえる。彼女の両目からは黒い血が滲み続け、瞼の下で眼球が不規則に痙攣していた。完全に失明しただけでなく、精神にも深い傷を負ったようだった。
勇はゆっくりと両手を美冬の顔の上に翳した。彼の指先から微かな光が広がり始める。本で独学した密教と神道を混ぜたオリジナルの治癒術だ。彼の呪力が美冬の体内へと流れ込んでいく。
「失われた肉体は取り戻せる…」勇は低く唱えるように言った。
彼の手から放たれる呪力が美冬の顔を包み込み、血の流れが止まっていく。傷ついた目の組織が再生し、失われた視力が戻っていくのを勇は感じ取った。彼の治癒術は肉体の傷を完全に修復することができた。
しかし、美冬の意識は戻らない。彼女の精神がどうなっているのかは、勇にも分からなかった。魂磐の真実を目の当たりにしたことで、彼女の心は深い闇の中に逃げ込んでしまったのかもしれない。
「体の傷は治した」勇は涼皇と透基に告げた。「だが精神がどうなっているかは…彼女が目覚めるまでわからない」
涼皇が四人の中で次に声を取り戻した。しかし、その声は彼女のものとは思えないほど虚ろで、乾いていた。
「…これが」彼女の声はかすれ、震えている。「儂たちには…勝ち目がない…」
透基と勇は黙ったまま、互いの顔を見つめ合った。彼らの目には同じ絶望と、その奥に小さく灯る決意の火が宿っていた。
天秤の片方に置かれたのは、彼らが今見た恐るべき真実。もう片方には、彼らの全てを賭けた抵抗の意志。その天秤は明らかに均衡を失っていた。
勇が美冬から手を離し、立ち上がる。彼の瞳には、絶望の中に生まれた新たな決意が宿っていた。
「それはどうかな」彼は低い声で言った。
鎮室の中で、四人の息遣いだけが響いていた。それは圧倒的な敵に立ち向かう、儚くも揺るぎない決意の静寂だった。
「しかし」
静寂を破る羽賀透基の声に、勇と涼皇が顔を上げる。
「ここからが、勝負だ」
透基の顔に、予想外の笑みが浮かんでいた。立ち直るのは透基が一番早かった。彼はゆっくりと眼鏡を押し上げ、身体から震えを振り払うように深く息を吸った。
「わかっていたことだろう」透基は静かに言った。「君を信頼してここまできた。その信頼に私も応える。君も私の信頼に応えてくれ」
勇はゆっくりと顔を上げ、透基と目を合わせた。「あぁ」
勇が立ち上がる姿を見て、透基の表情に安堵の色が広がる。彼は素早く涼皇の方を向いた。
「大丈夫ですか?動けますか」
涼皇は一瞬躊躇したが、すぐに頷いた。「あぁ」
「とりあえず、全ては逃げた後で話します。これからの作戦を手短に—」
透基は素早く脱出計画の概要を説明した。
三人の顔に決意の色が浮かぶ。
「行くぞ!」勇の声と同時に、彼の前に立っていた子供の姿の涼皇に驚くべき変化が起こった。
九頭鏡から放たれる青い光が彼女の体を包み込み、彼女の姿が急速に変容し始めた。小柄な体が伸び、筋肉が発達し、骨格が成熟した大人の女性の体へと変貌していく。
わずか数秒で、彼女は身長170センチを超える長身の成人女性となった。漆黒の髪が膝裏まで流れ落ち、赤い巫女装束が今や引き裂かれそうなほどの豊満な肉体を覆っていた。Hカップを優に超える豊かな胸は装束の布地を限界まで引き伸ばし、その豊満さにもかかわらず若干の垂れ具合が成熟した女性特有の色気を醸し出していた。紅殻色の乳輪がわずかに浮き出ているのが、薄い布地越しにも確認できた。
完璧な曲線を描く腰のくびれから広がる臀部は、日本人特有の下膨れ気味の丸みを帯び、肉感的でありながら引き締まった太腿は、秘められた力強さを感じさせた。
変身を遂げた涼皇と勇は一斉に結界に向かって呪力を放った。勇の掌から放たれる呪力は密教と神道を融合させた特殊なものだった。それは通常の結界破りとは全く異なる軌跡を描き、結界の弱点を突き破っていく。
一方の涼皇は、取り戻した九頭鏡を中心に、8枚の青銅鏡を宙に浮かせていた。鏡からは眩い光が放たれ、結界を分子レベルから分解していく。九頭鏡が増幅器となり、彼女の力を何倍にも高めていた。
勇は思わず見入ってしまったが、次の瞬間、彼の思考は一変した。涼皇の唇が歪み、鋭い八重歯を見せる獰猛な笑みが浮かんだのだ。その目には殺意に近い破壊への渇望が宿り、もはや彼女を「女」として見ることができなくなった。目の前にいるのは、純粋な戦闘マシンだった。
「まさか…」透基は二人の力に感嘆の声を上げた。
結界が次々と崩れ始める。通常なら何日もかかる作業が、わずか数分で進行していた。
警報音が鳴り響き、赤い警告灯が点滅し始めた。
「侵入者です。すでにレベル4にいます!!!」
施設内の緊急通信が鳴り響く中、監視室ではキサラと神威が信じられない光景を目の当たりにしていた。
「これは…不可能なはず」キサラが震える声で言った。
「あの結界は、いかなる呪術でも破れない」
神威の冷たい表情に、初めて動揺の色が走る。
「涼皇の封印が解かれた…そして九頭鏡まで取り戻している」
「どうして気づかなかった?」キサラが震える手でコンソールを操作する。「侵入者は一体どこから?」
「警備システムに異常なし…」神威が画面を凝視する。
キサラの顔から血の気が引く。
「まるで幽霊のように侵入したようだ」
神威は静かにそう言い立ち上がった。「これほどの準備ができていたということか…羽賀透基、恐るべき男だ」
「時間がない」勇が言う。「エレベーターへ!」
四人は急いで廊下を駆け抜ける。透基は影の術を使って美冬を包み込み、自らの影の中に隠した。勇と涼皇が先頭に立ち、進路を遮る結界を次々と破壊していく。
涼皇の手元で九頭鏡が輝きを増し、他の鏡と共鳴する。彼女の呪力が鏡を通して増幅され、結界を切り裂いていく光景は圧巻だった。鏡が放つ青白い光の帯は、まるで制御不能の超高エネルギービームのように廊下の壁を溶かし、天井を破壊し、床に穴を開けていった。
彼女の表情には、これまで封印されていた力を解き放つ悦びと、破壊への渇望が混ざり合っていた。八重歯をのぞかせる獰猛な笑みは、もはや人間のものとは思えなかった。豊満な肉体から放たれる呪力は空間そのものを歪ませ、周囲の物体を分子レベルで分解していく。
エレベーターに到着すると、勇は躊躇なく扉を両手で掴み、呪力を込めて引き裂いた。扉が歪み、開く。
「中に入れ」勇が命じる。
透基が影の中に美冬を隠したまま入り、涼皇が続く。勇は最後に入り、エレベーターのケーブルを見上げた。
「上へ行くぞ」
涼皇の鏡から放たれる光が、シャフト内の結界を一掃する。次の瞬間、エレベーターの壁が青い閃光に包まれ、一部が粉々に砕け散った。彼女の制御しきれない力が周囲の金属を溶かし、まるで水のように流れ落ちていく。
勇は素早くケーブルに飛びつき、呪力を籠めた手でケーブルを引っ張り始めた。エレベーターがゆっくりと上昇し始める。
「追っ手が来るぞ!」透基が警告する。
下から複数の気配が迫ってくる。涼皇の九頭鏡が青い閃光を放ち、追っ手を足止めする。シャフトの下部が鏡の光によって完全に崩壊し、追っ手の進路を完全に塞いだ。それは彼女の通常の能力を遥かに超える破壊力だった。
「これほどの力があったとは…」透基は涼皇を新たな目で見ていた。「一体どれほどの力を秘めていたのか」
「まだまだこんなものではない」涼皇の表情に闘志が宿る。「本来の力を取り戻せばもっと…」
エレベーターが地上階に到達する前に、勇は扉を再び引き裂いた。彼らは急いで廊下に飛び出す。
進路を遮る結界を、勇と涼皇が連携して次々と破壊していく。その光景は圧巻だった。二人の呪力が交差し、互いの弱点を補い合いながら、あらゆる結界を粉砕していく。九頭鏡の力を得た涼皇は、かつての威光を取り戻しつつあるようだった。彼女の周りを8枚の鏡が回転し、放たれる青白い光は廊下の壁を溶かし、天井を砕き、床に穴を開けていく。
「ここから先は私が案内する」透基が前に出る。「出口はすぐそこだ」
彼らは驚異的なスピードで施設内を突き進んでいく。追っ手の気配が迫るが、涼皇の鏡と勇の呪力の壁がそれを阻んでいた。涼皇の放つ一閃の光線が追ってくる者たちの進路を完全に塞ぎ、研究施設の内部は彼女の破壊的な力によって瞬く間に変貌していった。壁は溶け、床は崩れ、結界は消滅していく。
「あと少しだ!」透基が叫ぶ。
榊総研の裏口から三人の姿が飛び出した。九龍勇、甲凪美冬、そして御巫涼皇。涼皇の長い黒髪は風に揺れ、その薫り立つような艶やかさは、地下施設での拘束から解放されたばかりとは思えないほどだった。
出口が見えてきた時、最強の気配が彼らの前に立ちはだかった。
「予定通り、あいつらがいるな」勇が前方を睨みながら呟いた。
研究所の入り口付近には、すでに八幡神威と神薙キサラが待ち構えていた。神威は鏡のように研ぎ澄まされた野太刀を手に、凛とした佇まいで立っている。その側には隻眼のキサラが、額の赤い勾玉を光らせながら冷徹な眼差しを向けていた。
涼皇が息を整えながら言う。「計画通り進める。二人に任せる」
その時、研究所の扉が開き、羽賀透基が姿を現した。銀色の髪を月光に輝かせ、眼鏡の奥の鋭い眼差しで神威を見据える。
「勇」透基は言った。「涼皇様と美冬を連れて急いで。私とこの者たちが時間を稼ぐ」
透基の言葉が終わるか終わらないかのうちに、夜の闇から五つの人影が現れた。軍服に身を包み、仮面を付けた女性たち—特務0班、通称「八咫烏」だった。
彼女たちの中でも際立っていたのは、先頭に立つ女性だった。他の四人よりも一段高い位置に立ち、風になびくショートヘアが月明かりに輝いている。完璧なプロポーションは軍服の下でもはっきりと分かり、細いウエストとその上下に広がる女性らしい曲線は隠しようがなかった。
彼女の顔は仮面で覆われていたが、その仮面の隙間から覗く目は鋭く、また神秘的な輝きを放っていた。やや分厚い唇だけが露出しており、その形の美しさからも並外れた美貌の持ち主であることが窺えた。
「どうやら防衛庁も本気ですね」キサラが淡々と言った。「八咫烏まで差し向けるなんて」
八咫烏のリーダーは一言も発しなかったが、わずかな頷きで他の四人に指示を出した。瞬時に彼女たちは散開し、キサラを取り囲む陣形を形成した。その動きは完璧に連携しており、長年の訓練で培われた絆を感じさせた。
リーダーの女性は腰に差した日本刀を静かに抜き放った。刀身が月光を反射して青白く光る。他の四人もそれぞれ武器を構え、呪符を手にした。
「私たちが相手をする」八咫烏のリーダーが初めて口を開いた。その声は低く、しかし透き通るように美しかった。「急いで」
勇は頷き、涼皇と美冬の手を取った。
三人は素早く動き、神威とキサラの側面を突破しようとする。神威が刀を引き抜いたその瞬間、八咫烏の五人が一斉に動き出した。リーダーの女性が風のように駆け、キサラの前に立ちはだかる。他の四人もそれぞれの位置について、完全な包囲網を形成した。
「排除します」キサラが言った。
八咫烏のリーダーは答えない代わりに、一瞬で距離を詰め、鋭い刀撃を放った。キサラはそれを間一髪でかわし、呪符を放つ。呪符が八咫烏のリーダーに向かって飛んでいくが、彼女は優雅な動きでそれを避けた。
「私が相手よ」八咫烏のリーダーの声には冷たい決意が宿っていた。
他の四人の八咫烏も動き出し、それぞれ独自の術を展開し始めた。一人は空中に浮かぶ呪符を次々と放ち、別の一人は地面に術式を描き、残りの二人は直接攻撃を仕掛けていく。
「小賢しい」キサラの隻眼が怒りに燃えた。
神威が勇たちを追おうとした瞬間、透基がその前に立ちはだかった。
「お久しぶりです、八幡神威様」
透基の挨拶が終わる前に、神威の野太刀が月光を反射して閃いた。その刀は風を切り裂き、透基の体を横一文字に両断するかのように振り下ろされた。刀身から零れる呪力は周囲の空気さえ震わせる。
だが透基の姿は薄れ、刀を受ける直前に掻き消えていた。
「虚空渡りの呪符か」神威の表情は変わらない。「結界を突破した術だな」
神威の鋭い洞察に、研究所から百メートルほど離れた場所に透基の姿が再び現れる。その右手には万年筆から変化した古風な木製の杖があった。
「さすがは神招姫の頭女、即座に理解されましたか」透基は冷静に言う。
神威は返答の代わりに刀を構えた。その姿勢からは隙がまったく感じられない。突如、神威の姿が消え、一瞬で透基の目前に現れる。野太刀が月を描くように振るわれ、空気を切り裂く音が夜の静寂を破った。
透基は間一髪で身をかわし、杖を前に突き出す。杖の先端から青白い光が放たれ、神威に向かって直線的に飛んでいく。それは杖に仕込まれた近距離型の呪符だった—直接触れなければ効果がない代わりに、その貫通力は比類なきものだ。
しかし神威は優雅に体を反らし、呪符をかわすと同時に刀を振るう。その動きは人間離れしていた—まるで水が流れるように、また蛇が獲物に襲いかかるように、無駄がなく致命的な美しさを持っていた。
「くだらない手品だ」神威は冷徹に言い放つ。
透基は神威との間合いを慎重に調整し、十数メートルの距離を保った。そして静かに、しかし確固たる意志を込めて唇を開いた。
「天地玄宗、万炁本根」
声に呪威を込めた最初の詠唱が夜気を震わせる。透基の喉から発せられる言葉は普通の会話ではなかった—それは空気を振動させ、目に見えない波紋となって広がっていく呪術だった。
同時に透基の左手が複雑な印を結び、右手の杖が大気中に文字を描く。これは詠唱を増幅させる所作だった。
「広修億劫、証吾神通」
二つ目の詠唱が重なる。透基の声は二重になり、まるで一人の人間から二つの声が同時に発せられているかのようだった。一つは防御の詠唱、もう一つは攻撃の詠唱。二つの異なる呪文を同時に唱えるという、常人には不可能な技。
神威は静かに観察していた。その眼差しには、いかなる動揺も恐れも感じられない。ただ冷静な分析と、圧倒的な自信があるだけだった。
「廓落幽冥、顕道法則」
三つ目の詠唱が加わり、透基の声は三重になった。今度は肉体強化の詠唱が加わる。三つの異なる呪文が織りなす複雑な波動が空間を歪ませ始めた。
研究所の周辺に前もって仕掛けておいた呪符が次々と発光を始める。地面から、壁から、空中から—あらゆる方向に配置された呪符が青白い光を放ち、透基の詠唱に呼応する。
「乾坤虚皇、太極浄清」
四つ目の声が加わる。声が重なるたびに透基の体から漏れ出る呪力が強くなり、周囲の空気がさらに震え始めた。風が渦を巻き、呪符の光が神威に向かって収束していく。
神威はそれを見据えながら、ゆっくりと刀を構え直した。その動きには無駄がなく、完璧な均衡があった。
「妄想頑空、五蘊皆成」
五つ目の詠唱。透基の声はもはや人間のものとは思えないほど複層化し、現実の空間に干渉し始めていた。地面から立ち上る砂塵、揺れ動く木々の葉、そして呪符から放たれる光の輝き—それらすべてが透基の詠唱によって操られているかのようだった。
神威は眉一つ動かさない。
対照的に、透基の額には汗が浮かび、体に緊張が走っていた。二十の異なる詠唱を同時に行うという離れ業は、精神と肉体の両方に極限の負荷をかける。しかも各詠唱は独立した効果を持ち、それらを矛盾なく調和させなければならない。
「帰命十方、禁縛邪祟」
六つ目の詠唱が加わり、透基の周囲に防御の結界が形成され始めた。淡い金色の光の膜が透基を包み込む。
しかしこの時、神威が動いた。
その動きはあまりに突然で、あまりに速かった。一瞬前まで十数メートル離れた場所に立っていた神威が、次の瞬間には透基の目前に迫っていた。物干し竿のように長大な野太刀が月光を受けて閃き、透基の詠唱を遮断するように振り下ろされる。
刀の軌道は予測不可能だった—直線ではなく、複雑な曲線を描きながら透基の防御の薄い部分を狙っている。刀身から漏れる呪力は目に見える形で空気を歪ませ、切っ先が描く軌跡には青白い残光が残った。
透基の詠唱は中断された。六重に重なっていた声が一瞬にして掻き消され、形成途中だった結界が揺らぐ。同時に発動直前だった呪符の光も弱まり始めた。
咄嗟に透基は虚空渡りの呪符を発動させ、神威の刀が到達する寸前に姿を消した。代わりに彼の姿は三メートル後方に出現した。
しかし神威はすでにその場所にも刀を振るっていた—まるで透基の行動を予測していたかのように。透基は間一髪で杖を交差させ、刀撃を受け止める。金属と木の激突する音が夜の静寂を破り、衝撃で透基の体が後方に弾き飛ばされた。
「無駄だ」神威の冷たい声が響く。「二十詠唱など、私の前では意味をなさない」
透基は膝をつき、荒い息をつきながら立ち上がる。詠唱の中断による反動で体の震えが止まらない。
それでも透基は諦めず、再び詠唱を始めようとする。だが神威はそれを許さなかった。刀を鞘に収め、一瞬で引き抜く—居合の構えだった。その動きは目で追えないほど速く、刀身が空気を切り裂く音だけが透基の耳に届いた。
透基は自身の反射神経を限界まで高める呪符と体感時間を短くする呪符、肉体強化の呪符を同時に発動させていた。それでも神威の動きに完全に追いつくことはできず、かろうじて致命傷を避けるのがやっとだった。
「ありえない…」透基は思った。しかし、ある意味想定内でもあった。八幡神威は聖護連合で一位の位置づけ。つまり世界一の実力者だ。
透基の体から汗が滴り落ちる。そして、ボロボロになった虚空渡りの呪符の効果が消えていくのを感じた。何度も使用した呪符は力を失い、紙片となって風に散っていく。
「ここからが本当の戦いだ」透基は杖を構え直し、覚悟を決めた。
一方、研究所からはすでに勇、涼皇、美冬の姿は見えなくなっていた。三人は計画通り、透基と八咫烏が神威とキサラの足止めをしている間に逃走を成功させていた。
「速く行くぞ。基透さんたちの犠牲を無駄にするわけにはいかない」勇が美冬を抱きかかえながら兎歩を使い、瞬間移動し続ける。
「あの二人が止められる時間は長くない」涼皇が答える。
2人は暗い夜道を駆け抜けていった。背後では、羽賀透基と八幡神威の決戦が、そして八咫烏とキサラの闘争が、夜の静寂を破る音とともに続いていた。
「終わりだ」
神威の冷酷な宣告が夜気を震わせた。その言葉を告げるや否や、神威の野太刀が横一文字に閃く。物干し竿のような長大な刀身が空気を切り裂き、その軌道は完璧な円弧を描いて透基の胴体を狙っていた。その刀の長さは通常の日本刀をはるかに超え、少なくとも二メートル近くもあった。
神威の動きには無駄がなく、まるで精密に計算された機械のようだった。刀の長さに似つかわしくない、異常なほどの速さと精度で振るわれる一撃は、まるで光線のように鋭く、空気さえ切り裂いて風を起こしていた。
透基は間一髪で杖を交差させ、刀撃を受け止める。二つの武器がぶつかり合う瞬間、激しい金属音が響き渡った。刀と杖が接触したまま、押し合いの状態になる。
神威の表情に変化はなかった。ただ淡々と、必要な力を必要なだけ加えていく。感情の揺らぎなど微塵も感じさせない。その手に握られた長大な刀は、扱いにくそうに見えたが、神威の手の中では軽やかに動き、まるで体の一部であるかのように自在に操られていた。
「まだだ!」
透基は杖にありったけの呪力を集中させた。杖が青白い光を放ち始め、その輝きは次第に増していく。神威の眉が僅かに動いたが、それすら計算された動きのようだった。
「太虚封絶!」
杖に集中させた呪力が一気に解放される。爆発的なエネルギーの放出が起き、青白い光が二人を包み込んだ。衝撃波が四方に広がり、近くの木々が揺れ、地面が震えた。
煙が晴れると、透基の姿があった。爆発の衝撃で体はボロボロになっていたが、その傷がスーツと共に肉眼で見えるほどの速さで修復されていく。自身にかけていた自動回復の呪いが発動していた。
「まだ1分30秒しか時間を稼げていない…」透基は思った。「あと30秒は必要だ」
透基の目は研究所の方角を一瞬だけ見た—勇たちが逃げた方向を確認するように。すぐに煙の向こう側から神威の姿が現れる。爆発にも関わらず、その姿にはほとんど損傷がなかった。
神威は一歩一歩、正確に間合いを詰めていく。その動きには躊躇いもなければ、焦りもない。ただ確実に、獲物を追い詰める捕食者のように前進するだけだった。異常に長い刀を持ちながら、その動きは決して鈍くなることはなかった—むしろその長さを最大限に活かし、広範囲を制圧するかのように刀を構えていた。
透基は両手で印を結びながら、二重詠唱を始める。
「万象帰一、封縛万象」「天地融和、束縛虚空」
二つの異なる詠唱が同時に進行する中、透基の中指の指輪が明るく輝き始めた。その光から無数の光の輪が生まれ、空中に浮かびながら神威に向かって伸びていく。何十もの封縛輪が神威を取り囲み、その動きを封じようとする。
神威は表情を変えず、ただ機械的な正確さで刀を振るった。野太刀が一閃し、その長大な刀身が一瞬で広範囲を薙ぎ払った。刀の軌跡は肉眼では捉えられないほど速く、ただ青白い光の残像だけが空間に残る。次の瞬間には全ての封縛輪が切断されていた。まるで光そのものを切断したかのようだった。
その動きには無駄が一切なく、必要最小限の動作で最大の効果を引き出していた。通常であれば扱いが難しく、振るうのにも時間がかかるはずの長大な刀が、神威の手の中では短刀のように自在に操られていた。
「その程度では私を止められない」神威の声は冷たく、感情の起伏がなかった。
神威が再び迫る。その速度は以前にも増して速く、透基の目にはほとんど残像としか映らない。刀が振るわれる際の空気の振動だけが、その動きの速さを物語っていた。しかし神威の動きには予測可能なパターンがあった—それは完全に合理的で効率的な攻撃パターンだった。まるでプログラムされた行動のように。
今回、透基は神威の斬撃を避けることができた。小指の指輪が強く発光し、神威の動きが僅かに鈍った—透基の周囲の局所的な時間の流れを遅くする効果だった。それでも神威の刀は信じられないほどの速さで透基に迫り、わずかに避けることができたに過ぎなかった。
「時間律の指輪」神威が淡々と述べる。その声には驚きも感心もなく、ただ事実を認識したというだけの響きだった。
透基は何度も神威の攻撃を避けたが、指輪の効果は長続きしない。一回、また一回と使用するたびに、指輪にはヒビが入り、効果が弱まっていく。神威の攻撃は一撃一撃が正確で、刀の軌道は常に致命的な部位を狙っていた。その長さゆえに、通常の刀では届かない距離からも攻撃が可能だった。
キンという金属音が響くたび、透基の表情が強張る。指輪のヒビが大きくなるにつれ、冷や汗が額から流れ落ちた。
「あと10秒…」透基は内心で計算していた。
しかし状況は急速に悪化していた。指輪のヒビはもはや肉眼でもはっきりと見え、次の一撃で砕け散りそうだった。神威の刀の動きがさらに加速し、まるで目に見えない力に操られるかのように舞い始めた。
その時、不思議な現象が始まった。
研究所の周囲に、徐々に霧が立ち込め始める。最初は薄い靄のようだったが、瞬く間に濃い霧へと変わり、視界を遮り始めた。
神威の眉が僅かに寄った。しかしそれは感情の表れというより、新たな状況を分析している様子だった。
神威は自分の手に持った長大な刀を見た。刀の感覚が徐々に薄れていく。手に重みはあるのに、触感が鈍っていく不思議な感覚。
前方を見ると、透基の姿が霧の中で揺らぎ、歪み始めていた。神威は鋭い視線を向けたが、五感がどんどん鈍っていく。音も匂いも味も、そして触感も—すべてが遠ざかっていく。
「幻霧陣」神威の声は平坦だった。
発動までに時間がかかる術ではあったが、その効果は絶大だった。敵の五感を徐々に奪い、混乱させる高度な幻術。透基は最初から、この術の発動のために時間を稼いでいたのだ。
霧の中で透基の姿が次第に薄れていく。神威は素早く周囲を見回し、発生源となる呪符を探した。機械的な精度で一枚を見つけ、刀で両断するが、それは複数枚あることにすぐに気づく。神威の長大な刀は霧の中で青白い光を放ち、次々と呪符を斬り裂いていくが、その数があまりに多く、すべてを破壊するには時間がかかる。
神威は野太刀を地面に突き刺した。二メートル近い刀が地面に深く食い込む瞬間、波紋が広がるように地面から亀裂が走る。神威の周囲に呪力が集中し、空気中に可視化されるほどの濃度で渦巻き始めた。
「霊界粛清」
神威の言葉と同時に、刀を中心に強大な衝撃波が四方八方に広がった。霧は一瞬で吹き散らされ、辺りの木々さえも靡くほどの圧力だった。まるで神威を中心に、現実そのものが押し広げられたかのようだった。
しかし霧が晴れた時、そこに透基の姿はなかった。神威は静かに立ち、周囲を見渡した。その顔に感情の色はなく、ただ冷徹な分析が行われているだけだった。
「逃げたか」神威は刀を引き抜きながら呟いた。その声は平板で、感情の揺らぎは微塵も感じられなかった。その長大な刀を持ち上げる動作ですら、不自然なほど軽やかだった。
透基は僅かながらも作戦を成功させていた。神威とキサラを足止めし、勇たちに逃げる時間を与えたのだ。
「・・・・・・・」
神威が野太刀を鞘に収めようとした時、足音が近づいてきた。キサラの姿が現れる。その隻眼には僅かな焦りの色が浮かび、額の赤い勾玉は興奮したように明滅していた。
「申し訳ありません。逃げられました」キサラは頭を下げ、報告する。その声には明らかな緊張感があった。「八咫烏の足止めは排除しましたが、時間がかかりすぎました」
神威はキサラの方をゆっくりと向いた。
「もうよい」
ただその一言。神威の声には落胆も怒りも何もなかった。ただ事実を述べるだけの平板な声だった。
キサラは神威の反応に僅かに動揺を見せる。「ですが…涼皇様に逃げられたのでは神棚ネットワークの秘鍵がわからず…」
「もうよい…計画を実行に移す」神威は静かに言った。その声には感情の揺らぎは微塵もなく、ただ決定事項を述べるだけだった。
「しかし…」キサラの声が震えた。「どうやって…」
神威の視線がキサラに向けられた。その冷淡な眼差しは、まるで氷のようだった。
「秘鍵がなければ違うもので代用すればいい」
神威はキサラを見つめたまま言った。その言葉の意味を理解したとき、キサラの顔から血の気が引いた。
夜の闇が二人を包み込み、榊総研の敷地には静寂が戻っていた。
■帰還
羽賀宗家の結界に辿り着いた透基は、呪力で強化された重厚な門をくぐると同時に、肩から力が抜けていくのを感じた。門の両側に据えられた狛犬の石像が微かに輝き、結界の通過を知らせている。
「ふぅ…」
透基は長い息を吐き出した。灰色のスーツは裂け、所々焦げ跡が残っている。スーツの万年筆はひびだらけで指に嵌めた五つの指輪は、使用した呪力の反動で微かに発熱していた。
(神威様には殺気が全くなかった。やはりあの方の目的は私怨ではないな。戦後の急激な日本人の心変わりに、誘導ではなく支配が適切だと思っただけ…)
「透基様」
背後から突然聞こえた声に、透基は反射的に振り返る。その動きには戦闘の緊張感がまだ残っていた。
「っ!…」
一瞬、彼の顔に驚愕の色が走った。しかしすぐに安堵の表情に変わる。
結界の影から現れたのは、白い狐の仮面をつけた人物だった。八咫烏の戦闘服に身を包んだその姿は、通常の黒のパンツスーツとは異なり、機能性を重視した軍服のような装いだった。胸元には八咫烏の紋章が刻まれ、袖と襟には呪力増幅のための特殊な刺繍が施されている。
軍服姿でありながらも、その立ち姿は9頭身に近い完璧なプロポーションを思わせた。小さな顔と、一般的な日本人女性より明らかに高い位置にあるウエストラインが、華奢ながらも凛とした印象を与えている。
結界内の安全を確認すると、彼女はゆっくりと仮面に手をかけた。
仮面が外れると、そこには月明かりに照らされた端正な顔立ちがあった。透明感のある白い肌、凛とした瞳、そして黒髪のショートボブが首筋の美しさを引き立てている。彼女の戦闘服も所々に戦いの痕跡が残っていた。
「御体が気になりましたので」美咲は真摯な表情で答え、一礼する。彼女の黒髪のショートボブは首筋を美しく露わにし、その整った姿勢は常に緊張感を孕んでいた。
「ありがとう」透基は柔らかく微笑む。「いや〜めちゃくちゃ強かったよ。君がキサラ様のほうを足止めしてくれなかったら30秒も持たなかったね」
彼の言葉に、美咲は小さく首を振った。その仕草は控えめながらも、彼女の自負心を垣間見せていた。
「そんなことはありません。透基様のご活躍があってこそです」
彼女は言葉を選びながら答えるが、その目には透基への絶対的な信頼の色が宿っている。高い位置にあるウエストライン、すらりとした脚線、そして小さな顔立ち—どれをとっても完璧な美しさを持つ彼女だが、緊張した場面でも唯一下唇を噛む仕草だけが、彼女の内に秘めた不安を表していた。
透基は美咲の様子を見て、穏やかに笑った。この笑顔は部下たちには見せない、彼女だけに向けられたものだった。
「本部への報告はすでに済ませました」美咲は戦闘服の胸ポケットから小さな通信機器を取り出した。「追跡班からの最新情報も届いています」
「さすがだね。いつも頼りにしているよ。ただ通信機の使用は今夜から中止だ。電話のみでの対応になる。あと数分で羽賀宗家はネット接続を強制遮断になる」
透基はそう言って、安心したように頷いた。彼女の存在は羽賀宗家にとって、信頼できる盾そのものだった。
「じゃあ、書斎に戻ろうか」
そう言って歩き出す透基の隣に、美咲は半歩後ろから控えめに付き従った。彼女の戦闘服の背には、今夜の戦いで生じた小さな裂け目が幾つか見えた。腰高のシルエットが作り出す長い脚のラインは、戦闘服という実用的な装いの中にあっても、その優美さを失わせることはなかった。
美咲は一瞬、眉を寄せたが、すぐに表情を平静に戻した。ネット接続の遮断については先ほど本部から連絡を受けていたが、理由は伝えられていなかった。あまりにも急な話だったが、彼女は疑問を言葉にしなかった。
代わりに彼女は小さく頷き、通信機器を胸ポケットにしまった。透基の視線の先に何かがあること、そして彼がそれを言葉にしない理由があることを、彼女は直感的に察していた。長年の付き合いで培われた彼への信頼は、彼の決断に異を唱えることなく従うだけの確かさがあった。
彼の背中を見つめる美咲の瞳には、揺るぎない信頼と共に、かすかな懸念の色が宿っていた。しかし、それを口にすることはなかった。羽賀透基が決めたことには、必ず理由がある—その信念は彼女の中で確固たるものだった。
この作品は綾守竜樹著・百姫夜行の二次創作です。同時期にご活躍されていた斐芝嘉和の呪い屋零シリーズのキャラを登場させてもらっています。あらすじをbc8c3zが作り、ある先生に書いていただいたものです。4月の綾守先生のご命日の供養企画の1つです。
この作品が一瞬でも綾守先生がいなくなったことの皆さんの孔を埋めれれば幸いです。
感想があれば励みになりますのでお書きください。